本文へジャンプ
main Log information Side Story Gift link

とある魔術の禁書目録 SS
『とある幻想の白黒色彩(モノクローム) 第1話』


吸血殺しが証明するものが吸血鬼の存在であるならば、
幻想殺しが証明するものは、当然、幻想種の存在であるはずだ。
それが違うと言うのであれば、きっとその能力は『幻想殺し』ではない。
他の名前をつけてやったほうが適切だ。
それでもその名に固執するのであれば、
幻想の1つや2つ、遭遇してやるぐらいのサービス精神があって丁度良い。





科学の町、学園都市。
ここは能力開発、即ち子供たちの脳に直接物理的・薬物的・精神的・遺伝的・その他種々諸々のショックを与えることで超能力という人類のさらなる進化を人工的に引き起こすなんて、ヒステリックな人道主義者たちにとってひどく忌々しい、耐え難い悪行を主目的に掲げている、一言で言ってしまえば挑発的な場所である。
西東京の巨大な一角をぽっかりと円形にくり抜いて造ったような都市は、そんな自然主義者たちのデモ活動を恐れたわけではなく、ただ単純に外と比較して20〜30年も進んでいると言われる技術情報の流出を恐れたため金属製の塀に取り囲まれた、一種の治外法権、あるいは巨大な刑務所のような空間が作り出されている、ひどく人工的な街だった。
そんな学園都市であっても、通常の学校のように学生たちにとっては当たり前に存在する夏休みであったが、それさえ既に残り日数が少なくなりつつある。
過ぎ去った夏の思い出を憂い始める学生が多くなる時期に突入している。

具体的な日付を言えば、8月14日である。

お盆の時期とは言え、塀の外に出るのに煩雑な手続きが数多くある学園都市にあって、帰省する生徒は思ったよりも少ない。
なんと言っても、外から中に入るよりも、中から外に出るほうが難しいとされているほどであり、自身が機密情報の固まりである学生は、帰省するだけでも本当にうんざりするほどめんどくさい手続きがあるのである。
そんなわけで、長期休みに外に出て行く学生の数など全体の5%にも満たないのではないだろうかという統計さえあるほどだ。
ただし、今さっき第七学区にある学び舎の園から出てきた少女については、補習に学外活動と休むわけにもいかない事情があるのだから、外に出ることが容易であるにしろ、困難であるにしろ、どちらであっても帰るに帰れないのだけれども。
ちなみに学校の補習とは言っても、夏休みの宿題の代わりに実施される個人用の開発カリキュラムのことである。
補習時間の数がそのまま彼女が所属する学校で、生徒にとって優秀さの証であった。

そもそも、宿題が出されなければ勉強しないなんて輩は、彼女の学校には一人たりともいやしない。

そして学外活動とは、すなわちジャッジメントなどという大層な二つ名がついた学園都市特有の巨大な学間風紀委員のシステムの事を指すのだが、これもまた、夏休みなんて関係なく仕事を割り振ってくる。
本来であれば活動のメインは校内でのトラブルの解決なのだが、夏休みに入ったばかりにあった幻想御手(レベルアッパー)なんて大きな事件のせいで、学外の巡回も柔軟に実施されているのが実際である。
その上、事件の発生率から見るとむしろ一般生徒が昼間に暇になる分、風紀委員が関わる事件は夏休みには多くなる傾向にさえあったりするわけで、ますます学外パトロールが求められるといった具合になっていた。
何しろ、教職の人々がボランティアの名目で行っている警察活動、アンチスキルと呼ばれるソレは、もちろん教職員が夏休みを学生と同じだけ貰っているはずもないために特に昼間の事件に関しては後手後手に回らざるをえない、といった事情もあることだし。
とまぁ、そんな多忙な毎日を過ごす、総勢230万人の学生がいる学園都市の中でも上から数えた方が早い優秀な少女は、炎天下の中、補習のために立ち寄った学校から寮までの帰り道を歩いていた。

「・・・あっちいですわ」

ぼそりと優秀さの欠片も感じられない台詞を吐き出した少女が、ちらりと視線を道の端にある花壇に向けると、設置された花時刻は11時30分を指していた。
ミンミンやらジージーやらとやけくそのように鳴いている、夏特有のカメムシ目の叫びを聞く限り、これからさらに暑くなってくるような気配さえある。
空を見上げると、夏の容赦の無い日差しがこれでもかと言いたいばかりにじりじりと、彼女のむき出しの二の腕を焼く。
恨みがましい目で、天然のサウナのような状況を作り出した犯人を見上げると、途端にちかちかとしてくる瞳を細めて軽くため息をつく。

「・・・ふぅ」

軽く頭を振って、だらけた気持ちと頭の奥にこもる熱気を追い払う。
それから背筋を伸ばし、しっかりと学生鞄を握ってから前を向いて歩き出す。
これでもう外から見ると、灰色のスタンダードなプリーツスカートと半そでのブラウスにサマーセーターという学園都市の中でも名門と呼ばれる常盤台中学の制服を着た、絵に描いたようなお嬢さまにしか見えないだろう。
それぐらいのことは意識さえすればどんな状況でもこなせるようでなければ、とてもとても『お嬢様』などと名乗ることは出来ない。
例え心中では

『暑すぎるんですわ、うぎゃー』

などと叫んでいたとしても、サマーセーターなんて余計な上着は脱ぎたくてしかたがないと考えていたとしても、スカートをパタパタと仰いでやりたいと思っていたとしても、おくびにも出さないのがお嬢のたしなみである。
自分の心づもり一つで茶色い長髪を二つに結んだツインテールの先まで、ピン、と活力に溢れてくる気さえしてくる。
それに、彼女の所属している組織の性質から言っても、だらけた態度で街を歩くことはあまり褒められたことではない。
些細なこととは言え、そんなものに人は権威やら畏怖やら、『自分とは違う』何かを感じ取って生きているんだってことは、1年近いジャッジメントの活動で十分に肌で感じることが出来た。

・・・とは言え、誰もいない場所や甘えてしまいたい相手であれば、その限りでもないと少女は柔軟に考えることが出来るぐらいは優秀だったのだ。

つまり、彼女が姿勢を正したのは、視線の先に人影を発見したからである。
どこかの学校の制服だろうか、無地の白いYシャツに黒いスラックス。
ぼさぼさの黒髪は何故かまるで針金が入っているかのようにツンツンと空に向けてそびえているし、かったるそうにぐでぐでと歩く後姿はあまり素行の良い学生だとは思えなかった。
そんな観察をしていると、少女は身勝手だとは自覚しつつもイラつきを覚えてしまう。
自分は貴方の目を気にして慎ましやかにしているというのに、なぜあの男はこちらに気付きもせずにあんなだらしないのかという、その程度の癇癪だ。
そして、その辺のスキルアウトに『最悪の腹黒空間移動能力者』などと恐れられるぐらいには血の気の多い少女は、何か違反があったら問答無用でしょっぴいてやろうと、職権乱用な決心を抱きながら商店街に向かう方向へと曲がろうとした10メートルほど離れた男の横顔を、ひどく悪い人間の顔で見つめた。

・・・そこで彼女の思考が止まった。

彼女の歩く先にいたのは、見覚えのある人物だった。
やる気の無い三白眼のような目つきでまるで覇気を感じさせない風貌であるが、そこそこ顔は整っているといいだろう。
だが、憂鬱な顔が似合いそうな幸薄そうな表情で、ため息をつきながら猫背でのそのそ歩かれては全てが台無しと言わざるをえない。
いや、そんな肉体的特徴よりも、先に。
あの顔は、夏休みの初日に少女のお姉様がおとり捜査なんて似合わないことをした際に、邪魔に入った男性に良く似ていたことに気がついた。
何故かあの時の記憶が曖昧だったりもするのだが、それでも間違いない。
ということは多分、少女の先を行く人物は、彼女の同じ中学の先輩にしてルームメイトのお姉様が珍しくも気にかけている殿方ということなのだろう。

・・・つまりはアレか、あの猿がお姉様が抱いている儚い幻想とは打って変わって幻滅させるような人物であれば、まぁ、何というか、その、はしか、のようなお姉様の感情から目を覚まさせてやることも出来るというわけだ。

少女の頭の中で、『目の前の男=お姉様にちょっかいを出す身の程知らず』、という等号が結ばれると同時に、彼女は足音を立てないように、それでいて急いで先を歩く男の下へと忍び寄っていった。
自身の学校へと奉仕に来ているメイドが言っていた、男を狂わせる『魔性の一言』で化けの皮をはいでやろうと画策しながら。





「暑い・・・不幸だ・・・」

上条当麻は記憶喪失である。
記憶喪失と言っても色々な種類があるそうだが、彼の場合は生まれてから7月28日以前まで、全ての『エピソード記憶』を失った状態である。
不幸中の幸いとでも言おうか、『意味記憶』は無事であったため生活を送ることそのものにそこまでの不便を感じるわけではないが、だからと言って今年の夏休みより前の記憶がスッパリと存在しないのはやはり問題である。
一切合切一つの例外も無く全ての思い出を忘れてしまった上条は、両親の顔はおろか自分の顔さえ分からなかったぐらいだ。
それでも記憶喪失から既に20日程度が経つ。
その間に、金髪サングラスと青髪ピアスなクラスメイトと街中で遭遇したり、知り合いらしき赤毛の不良神父と錬金術師を相手に共闘したりなど些細な事件が起きたせいで、夏休みも後半になってもまだ補習を受けるハメにはなってしまった上条であったが、補習を担当している小萌先生も含めて誰にも記憶喪失を疑われることなく過ごすことが出来たこともあって、本人は何とかなるさと楽観視し始めていた。
何しろ記憶喪失となった原因を探るためには、上条の家で同居しているシスターさんに尋ねなければいけないことがあるのだが・・・。

彼女にソレを聞くことだけは如何してだか躊躇ってしまう上条は、今日も問題を先送りにして日々を生きている。

とは言っても、さして不都合があるわけではない。
幸いにも夏休み中であったこともあり、右も左も分からない状態で級友とばったり出会ってしまったとしても誤魔化すことぐらいは出来るのは経験済みだし、何といっても少しずつ昔の交友関係も把握できるようになってきた。
そして、基本的には学生寮に住んでいる上条は一人暮らしであるため一番最初に疑われるべき両親とはまだエンカウントしていない。

・・・そういえば、上条当麻には兄弟姉妹はいないのだろうか。

隣室のクラスメイトである、土御門には家政学校に通っているせいかメイド服をいつでも着用した妹がいたが、その妹が別の学生寮に入っているのを上条は知っていた。
万が一、同じように上条当麻にも兄弟がいるのであればソレは非常にまずいだろう。
学園都市の外に住んでいて普段の面識がない両親であっても誤魔化すのは困難だと考えているのに、同じ都市内に住んでいる肉親など、誤魔化すことを心配するだけ無駄というものだろう。

「お兄様」

そんなことを熱さに茹った頭で考えながら、のそのそとおっくうそうに歩いていた上条の耳に、愛らしいイントネーションで声が掛けられた。
何かの予感を感じて、思わず、彼の頬に一筋の汗が流れる。
上条はそれでも振り向かないわけにはいかないだろうと、ゆっくりと背後を振り返った。
そこには今の自分の記憶の中には存在しない少女が立っている。
色素の薄いサラサラの長髪を漫画でしか見たことのないようなツインテールでまとめた、上条よりも頭一つ半分ほど背の低い少女である。
小柄で愛らしい、端正な人形のように整った容姿に、人懐こいネコのような可愛らしい笑顔を浮かべていた。

「・・・?」

疑問符が口からは漏れないようにしながらも、上条の表情からは疑念の色が覗いていた。
利発そうな、あるいは我の強そうな眼差しをした少女ではあるが、高校生の上条と比べてかなり年下のように見える。
もしや本当に妹なのだろうかと混乱する頭でどうにか状況を把握しようと、キョロキョロと間断なく働いていた上条の両目に、少女が来ている特徴的な衣服が映った。

それを見て上条はピンと来た。

この制服はアレだ。
上条の高校と同じ学区にあるお嬢さま中学校の制服である。
つまりこの少女はお嬢さまであるわけだ。
常盤台中学のお金持ちのお嬢さまが自分の妹だなどと考えるよりは、彼女たちは目上の男性は皆『お兄様』などと呼ぶものだと考えた方が自然なのではないだろうか。
そんなコバルトな文庫的相関を頭に浮かべた上条は、そんな罠にホイホイ引っかかる上条当麻ではないぜウハハハハー、と心の中で高笑いをしながらそれでも何とかソレを表情には出すこともなく、少女へと向けて軽く右手を上げた。

「オッス。
久しぶりだな」
「・・・ひさしぶり?」

だが、少女は上条の挨拶にかすかに首を傾げていた。
上条は7月28日以降、この少女に出会っていないことだけは確信している。
対応は間違ってはいないはず・・・なのだが。

「・・・ええ、お久しぶりですの。
お兄様は本日はどちらへ?」
「ああ、今日は補習がまだ残ってたせいでそっちに行ってきたんだ。
夏休み前半は色々あって参加できなくてさ」

少女の言葉にこめられた微かな疑念に気付かずに、上条は少し饒舌な自分を意識しながらも手に持つ鞄を持ち上げて言った。
上条の答えにふうん、と気の無い返事をしながらも、少女は彼にも分かるぐらいはっきりと不審者を見るような視線を向ける。

・・・何なんだ、この状況は

上条が耐え切れずに声をあげるよりもわずかに早く、少女がいかにも今気付いたと言わんばかりに何気ない風を装って口を開いた。

「今度またお兄様のお部屋に遊びに行ってもよろしいですの?
どうせ前みたいに散らかしっぱなしなのでしょうから、先に断わっておこうと思いまして」
「へ?
あ、ああ、構わないんだけどこの前捨て猫を拾っちまってさ。
だから事前の連絡はほしいかな」

上条は脳裏に居候している白磁のティーカップのようなシスターの姿を思い浮かべながら、いきなりこの少女が学生寮に訪ねてきたら困るな、という考えしか浮かばなかった。
だから、少女が不敵にチェシャ猫のような笑みを浮かべると同時に、手に持つ鞄へと片手を突っ込んだのに気付きもしなかった。

「そうですの。
・・・では改めてお尋ねさせていただきます。
貴方は一体、どこのどなたですか?」

少女の言葉を聞いて、上条は言い訳を思いつくよりも先にぎょっとした顔で身体を強張らせた。
にこにことした笑顔から一転、固まってしまった上条を前に獲物を見つけた猫科の猛獣のように目を細めたその少女は、足を肩幅まで軽く開き、『荒事を瞬時に起こせる』体勢を保つ。
そこで、彼女がいつの間にか装着していた盾の紋章がプリントされた腕章を見て、上条の強張った頬にさらにどっと、つめたい汗が湧き出してくる。

・・・風紀委員(ジャッジメント)!?

ここまで来て上条はようやく少女に何かを怪しまれ、カマを掛けられたことに気がついた。
今の処この少女の目的は不明だが、そんなことよりもどうやら自分の記憶が疑われているらしい。
最も隠しておきたいことに不信感を持たれたことに上条は、じわじわと背中に夏の暑さを忘れさせるような冷たい汗が浮かび上がるのを感じた。

「逃げるが勝ちだっ!?」

もはやこれまでと見ると、上条の行動は早かった。
弾けるように駆け出した上条は、この夏休みの間に脳細胞に右手にと2度も3度も死んでいてもおかしくない怪我を負った人間とは思えぬほど元気一杯である。
ジャッジメントとは言え所詮は年下の女の子だ。
本気でがむしゃらに逃げる男にそう簡単に追いつけるわけがない。

「あら?
逃げるということは疚しい人間ですと告白してくれたと思ってよろしいのでしょうか」
「げぇっ!?」

上条の走行方向の1メートルほど先の場所に、少女が涼しい顔をして立ち塞がっていた。
それも上条の目が壊れたのでなければ、彼女は二本の足を使って走って彼の先に回りこんだわけではない。
何もない空間に、突然のように現れたのだ。

「・・・テ、テレポーターかよ」
「その通りですわ。
さて、逃げることが出来ないことがお分かりになったのでしたら、貴方が誰なのか教えて下さいますわね?」

上条は、自分でも気がつかぬうちにごくり、と唾を呑み込んだ。
それから、まだ足掻くことは出来るはずだと、口先三寸で逃れることを狙って頭をフル回転させる。

「か、上条当麻だ。
間違いなく本人だぞ」
「ふぅん」

少女は上条の動揺の気配を敏感に感じ取り、ぶしつけな視線を彼に向けたまま、続けて尋ねた。
まるで、将棋で敵の王将を詰んだときのような、勝ち誇った笑顔を浮かべて。

「では、お尋ねします。
わたしくは誰でしょう?」
「・・・ぐぅ」

思わずぐうの音が出た上条はもう焦った顔を隠すことも出来なかった。
辛うじて、不幸だ、といういつもの口癖は堪えることが出来たが、それはもうこの後確実に言うハメになるから貯めておこう、という情けない腹積もりである。





少女は目の前の不審者の様子を見て、きっと何処かの肉体変化系能力者によるいたずらだろうと見当をつけていた。
件の能力を扱う高能力者は数えるほどもいなかったはずであるが、この男の顔なんて以前ファミレスでちらりと見た程度の記憶に過ぎない。
塵芥に存在する低レベルの能力者による変身であっても、自分では見た目の特徴から真贋を見極めることは出来ないだろう。

では、目的は何か。

まず第一に浮かぶのが彼と付き合いがあるらしい第三位をおびき出すことだ。
だが、それにしては彼の行動は腑に落ちない。
第三位を相手にしようと思っている人間であれば、当然少女のことを知っているはずだ。
この男子学生が第三位と付き合いがあることを調査した奴らにしては、少女と彼が初対面であることぐらい当然調べがついているはずだ。
逆に言えば、そこまで把握する必要を感じなかった程度の相手であるのならば、本人が如何思っていようと雑魚確定なので気にかける必要もない。
そう結論を出した少女は、つまらない物を見るような瞳でその男を見つめながら口を開く。

「全く、何のつもりでその殿方に化け・・・」
「すまん、全部話す。
だからこのことは誰にも喋らないでおいて欲しいんだ!」

そう思った矢先に、男の方が先にゲロってくれるそうだ。
何とも面白みの無い結論だと、既にやる気を失いながらそれでも己の仕事の性分として彼の話を聞いていた少女の顔色が、話を聞くうちに変化していく。
疑惑から困惑、困惑から驚き、驚きから仰天にいたって、遂にはそのままぎょっとした顔のまま凍りついたように固まってしまう。
身体中にぞわぞわとした感覚が走り、このクソ暑い日中で全身に鳥肌が立つ。

・・・目の前の男から、まるで色が消えていた。

それが、少女の目にはひどくオドロオドロしいものに見えた。
記憶・・・喪失?
彼の言葉は単純に言えばそれだけだ。
生まれてから今年の7月の終わりまでの記憶を全て失ったのだと言う。
何だそれは。
聞いていない。
そんな透明な瞳で見つめないでくれ、と少女は叫びそうになる自分を必死に抑えていた。
それだけで、この男が真実を語っているのだと、何の疑いもなく信じてしまう。
だが、記憶喪失の下りを終え、現在の状況を話し始めたことでようやく色がつき始めたの男にほっとしたのか、少女の脅えも冗談のように消えていく。
なんでも彼は記憶喪失を秘密にしているらしい。
その理由が、彼の記憶喪失を知ってしまうと悲しませてしまう知り合いがいるからだ、なんて。

「この・・・お馬鹿っ!!」

まだ残っていた脅えを振り切って、感情の赴くままに少女はありったけの力を込めて男の顔面を殴りつけていた。
当たり所が悪かったのか、ぶげろ、などと面白げな悲鳴を上げて吹っ飛ぶ男を、ゼーゼーと肩で息をしながら睨み付けてやる。
そのまま、ずかずかと倒れる男へと大股で近づいていて、彼の耳たぶを容赦なく掴んで思い切り引っ張ってやる。

「さっさと病院に行って診断を受けてきなさいっ!!」

叫んでやったものの、男性からの答えを聞いて少女の勢いがピタリと止まる。
既に、それも彼女が知る限り最高の医者にかかっていたらしい彼は、それでも匙を投げられたらしい。
少女は思わず彼から手を離し、何てこったいと頭を抱える。
思い浮かぶのは彼女の敬愛するお姉様のことだ。
あのお姉様はこの男のことを憎からず思っているようで、この男のことを話すお姉様はひどく感情的で活き活きとしていた。
それなのに、その渦中の殿方がお姉様のことをすっぱりと忘れてしまっていては・・・、あの頑強そうに見えても中身は乙女が服を着て歩いているような性格のお姉様のことだ。
2,3日はどんよりと落ち込んでしまう様子があっさりと想像できた。

「お、おい?
大丈夫か!」

肩がゆすられる感触で思考の海から戻ってみると、件の殿方が少女の肩を掴んでいた。
少女は思わず『アンタのせいで悩んでんだコラァ!』と叫びそうになったが、それでも彼女の口からはその言葉は出ない。
記憶喪失の男性は、純粋に少女を心配している表情しか浮かべていなかった。
少女の脳裏に後悔の念が浮かぶ。
記憶喪失になって苦しんでいるのは彼で。
ただ苛立ちに任せて彼を殴ってしまった自分は罪を犯したのだと。

「・・・すまん。
俺は君のことを覚えていないんだけど、怒ったり失望されたりするのもムリはないと思う。
イヤだよな、知らない人間が自分の知り合いになりすましているみたいだろ?」

それなのに、そんな風に自分を卑下しながら彼は寂しそうに笑っていた。
思わず少女の胸が痛んだ。
そして、思う。

・・・それでも彼は記憶喪失だという事実を隠すつもりなのだという。

ならば、少女の役割は今まさに作ってしまった、彼への借りを返してやることぐらいだろう。
精々、どうでも良い話だと切り捨てて、彼の説明を聞かなかったことにしてやるぐらいしか出来そうにないが。

「初めまして。
わたくしはジャッジメントをしております白井黒子と言います」
「・・・ん?
あ、おい、俺のことは・・・」
「何を仰っているのかは分かりませんが、貴方とわたくしは初対面ですわ。
ええ、出会いがしらに殴ってしまいまして、申し訳ございません」

そう言ってペコリと少女、白井黒子は頭を下げた。
実際、彼と話すのも初めてなのだから、彼女にとって『初めまして』は正しい。
彼女は愛しのお姉様に隠し事をしなければならない事態にあることに胸を痛めながらも、俯いたまま、続けてこう言った。

「それで貴方のお名前は何というのですか?
こちらも名乗ったのですから、お名前ぐらいは教えて頂けるのでしょう?」
「あ、ああ・・・上条。
上条当麻だ」

そうですか、と如何にも今初めて名前を知りましたよ、とばかりに呟いた黒子が顔を上げると、彼は笑っていた。
黒子に、感謝の篭った、無邪気な笑顔を浮かべていた。
一瞬、黒子の心臓が大きくドキリと高鳴る。
気高く、心優しく、包容力があって、何の裏表もない・・・彼女が憧れるお姉様の笑顔と何故か彼の姿が重なった。
何処をどう見ても似ているとは思えない2人に対して何故かそんな感想を抱きながらも、黒子は差し出された彼の手をしっかりと握り締めたのだった。

(続く)